Xbox Game Passで遊んで欲しいゲーム選(1)

 

A Plague Tale: Innocence

黒死病がはびこる中世のフランスで大量の殺人ネズミと異端審問官から逃げるアクションゲーム。弟ユーゴのウザさとお姉ちゃん(プレイヤー)のアミシアの可愛さが丁度釣り合っている。松明や篝火などの明かりが無いところに行くとネズミが群がってきて即死するが、敵もまたそれで倒すことができるという、三すくみになっている。基本はステルスゲーで、パズル的な脳トレ要素も少なくない。ラスボスの攻撃の仕方が爆笑ものなので、ネズミの姿や鳴き声が無理でなければ、是非クリアを目指して欲しい。来年続編が出ることも決定したので、やるならいつ?そう、今だよ。

 


Alien: Isolation

言わずと知れたあのエイリアンからとにかく逃げるゲーム。エイリアンはAI学習するので同じような方法では段々逃げられなくなる、はずなのだが、火炎放射器で燃やすと逃げるので、そこまで怖くはない(ただし基本的には即死)。それよりも宇宙船内で勤務している全身白スキンのアンドロイドの方が100倍ぐらい怖い(筆者は道化恐怖症なので顔の白いものに弱い)。ストーリーは実際の映画『エイリアン』と『エイリアン2』の間の物語なので、エイリアンシリーズへの解釈度によって面白さが変わってくる(当社比)。ゲームとしては比較的難しい部類なのではないかと思う。あと、人によってはめちゃくちゃ画面酔いするらしい。

 

Anthem

2019年のマイベストゲーム。日本語のインターネットで検索すると、本作への悪口が散見されるが、そういった人々が普段どんな面白いゲームをやっているのか是非教えて欲しい(中指を立てながら笑顔で言う皮肉)。オープンワールドを自由に飛行できる斬新さと爽快感は他に類を見ない。筆者はストーム使いだったので、地面に足がついているより、浮いていることの方が多かった。4種のジャベリン(飛んだり撃ったりできる愉快なパワードスーツ)を自由にカスタマイズするのだが、スキルに分かりやすく強弱があるので、ビルド偏りがち。色々あって本格的にゲームを作り直す話も出ていたが、色々あって結局全部無かったことになった。そういった騒動ばかりに目が行きがちな世の中になってしまったが、本作の面白さは、なんら変わりはない。おそらくもうアップデートすることが無いので、逆に言うと遊び終わることができる。是非飛んだり撃ったりする楽しさを味わって欲しい。

 

BIOHAZARD7

2019年のセカンドマイベストゲーム。お世辞にも面白いとは言えなかった6の続編とは思えない傑作で、アシュリーぐらい可愛いヒロインが居たら、4越えもあり得た。脅かしだけだは無い、不快感や緊張感を演出するのが非常に巧みだった。所々に過去作のオマージュもあり、往年のファンにも配慮がある。筆者は初プレイ時、あまりの怖さに音声を英語から日本語に変更するほどだった(襲ってくるのが知ってる声優さんの声だと逆に怖さが和らぐため)(それはそれで声優さんに対してどうなんだという意見もある)。最新作ヴィレッジ(8)の前編でもあるので、まず7をやって欲しい気持ちでいっぱいである。

 

Call of the Sea

失踪した夫を妻(プレイヤー)が捜索する謎解きゲーム。盛りだくさんの謎がある島を探索するのだが、既に先行して島を探索した人たちの日記や足跡から推理するが面白く、ギリギリ解けるか解けないかの難易度設定が絶妙だった。取り逃した実績もチャプターセレクト(普通この手のゲームにはない)のおかげで苦痛を味合わずに済んだので印象も良い。ネタバレになってしまうとあれなのだが、タイトルがcall ofということで、アレ要素がある。スナック感覚で遊べるので、謎解きが苦手でなければ遊んで欲しい。

 

Children of Morta

ベルクソン(発音によってはバーガソンにも聞こえます)一家7人がプレイアブルキャラで、自動生成のダンジョンに潜りボスを倒す見下ろし2Dアクションゲーム。Dead Cellsに近いゲーム性だが、そこまで厳しくなく、RPG要素があるのでいつかはクリアすることが可能。温かい雰囲気とは裏腹にダンジョン内では結構残酷なイベントが起こるのでヒヤリハットさせられることも少なくない。普通に面白い作品なのに、あまりやっている人を見かけないのが不思議(日本語化されていないからか)(※Switch/PS4ローカライズされているそうです)。

 

Cities: Skylines - Xbox One Edition

街づくりシムの金字塔の1つ。多分20時間ぐらいはやったと思うが、普段からやっている人からしたら、やっているに入らないと思う。それほどに規模というか、考えさせられることやできることが多い。発電と上下水道の整備に始まり、道路を敷き、工場と住宅地、その間に食事処や買い物処、公園などを建てていく。街が大きくなると渋滞が激しくなるので、バス路線や電車を走らせることになる。自分が造った街の中を電車が走る光景は、鉄っちゃんではない筆者も謎の感動があった。ゴミ収集と死体処理(比喩ではない)を考えるのが何気に難しく、彼方立てれば此方が立たぬが頻発する。そのため問題を解決した後の爽快感は、実際の政治家を超えかねない。信号を建てたり一通にしたり専用道路を作ったりと、街づくりは道路づくりから始まることを痛感させられるので、この世に完璧な街など存在しないぐらいの気持ちが無いと終わりが無い気がする。気づくと2、3時間過ぎていることがざらだったので、怖くなってやめた。時間を捨てたい人にはうってつけ。

 

Day of the Tentacle Remastered

20年ほど前に出た作品のリマスター版。例によって英語かドイツ語しかないので、素直に攻略を見ながらやった方が良い。未来の地球が紫の触手に支配されてしまったので、過去、現在、未来3つの時空で協力し合って悪い触手を倒す、パズルアドベンチャーゲーム。コンテストの参加者の足元にゲロのオモチャ(FAKE BARFというアメリカのジョークグッズ)を置いて失格に追いやったり、過去でワシントン(実際のジョージワシントンです)に桜の木を切らせて未来におけるその木の存在を消滅させたり、車のトランクを無理やり開けようとしている人に鍵をあげてお礼にバールを貰ったりと、発想がかなりとびぬけているので、謎を解かなくても面白かった。移動が遅いのでちょっとイラつくが、ハムスターが可愛いので落ち着く。


Destroy All Humans!

エイリアンとして1950年代のアメリカを侵略するゲームのリメイク作。市長に変身して聴衆を扇動するパートが非常に面白かった。もっと無双できるかと思っていたが、意外とアメリカ軍が強い。UFOで街を破壊するパートも、意外と街が小さいのでDestroyし甲斐がそんなに無かった(一定の楽しさはちゃんとあります)。アナルにプラグを突っ込んで殺す銃があるので使ってみて欲しい。

 

Forager

実績を全て取らないのであれば非常に面白いサバイバルサクション作品。雷の杖を手に入れると別ゲーと化し、さらにやりやすくなるので止め時を見失ってしまうほど中毒性が高い。かまどを稼働させてから、木を切ってる間に魚釣り罠を仕掛けておき、石を砕き、モンスターを倒し、新しいかまどを作り…と、同時進行でいくつものことができるので、効率を重視する人生を送っている人ほど狂気に落ちやすいので、個人的には非常に相性が良かった。その一方で、できることをやり尽くそうとするとえげつないことになるので多少の覚悟と諦めは必要。普通にやる分にはとても面白いので安心してください。

 

Grounded - ゲーム プレビュー

一年ほど前に書いた頃より、いくつかの要素が追加されているのに、まだ完成版ではなく力を残していることに驚きを隠せない。虫が苦手でなければ是非やって欲しい裏庭オープンワールドの決定版。虫が無理な人は絶対無理です、諦めましょう。他にも面白いゲームは沢山あります。

 

Maneater

サメとなりて真の海洋エーペックスプレデターを目指すアクションRPG。陸の上を飛び跳ねながら人を喰うことができるのは本作だけなのではないだろうか。他にも亀やサバやアザラシをとにかく喰う。襲ってくるワニや他のやつもとにかく喰う。喰って得たエネルギーで成長して強いサメになりましょう。ソナーで収集物も見つけやすく、泳ぎも速くなっていくので遊びやすく気持ちの良い作品。やや物足りなさもあるので、人喰って爆笑して満足するぐらいが丁度良いのではないだろうか。

 

Monster Sanctuary

モンスターを倒して卵を得、ふ化したモンスターを育てながら、モンスターサンクチュアリの危機を救うRPG。モンスターの数は101種いて、それぞれのアクティブスキルとパッシブスキルがかみ合った時の全能感は最高。筆者はこの手のゲームでは攻撃のことしか考えてこなかったので、バフ、デバフの面白さを教えてくれた親的存在。モンスターのビルドや組み合わせが重要で、レベルアップもサクサクなので作業感も少ない。謎解きもそこまで難しくなく、何より各モンスターが非常に可愛いので、ポケモンと間違って買ってきても、1時間もすれば子の溜飲も下がるのではないだろうか。(※ここだけの話だが、オンライン対戦の上位の人が使っているモンスターがえげつない程強い)。

 

Moonlighter

夜にダンジョンに潜って得たアイテムを、昼間にお店で売って生計を立てるタイプのムーンライターアクションアドベンチャー。需要と供給から売価の適正ラインを見定めてたり、万引きを捕まえたり、得た収入で武具を作りダンジョンを攻略して、さらに高価なアイテムを求めていく。せこせこ優しいダンジョンで稼ぐより、ちょっと無理して難しいダンジョンに行った方が結果的に多く稼げたりする。全ボスのトドメを箒で刺す実績と、各ボスをノーダメージで倒す実績がるのだが、前者は1回のプレイで、後者は1回でもやればいいので、先にノーダメージで倒してからロードして箒で倒した方が良い。そうしないと筆者のような苦痛を味わうことになる(いづれにせよ1周目は普通にやって良い)。2周目以降は適正価格がインフレを起こしてジンバブエや昔のドイツみたいになって逆に面白いので一見して欲しい。

 

No Man's Sky

恐らく5年前に発売されたころとは同じ作品とは思えないほどに絶え間なくアップデートを繰り返して成長し続けているスーパーギャラクシーアドベンチャーの究極系。理論上1800京個ある(誤字ではない)惑星を宇宙船で訪れて、鉱石や植物などを回収して、お気に入りの星が見つかるとそこに基地を建てるゲーム(筆者の解釈)。ほぼ、異星人との交流や何者かとの通信、そしてプレイヤーのモノローグによってストーリーラインが語られるので、やや難解(というか筆者は何も理解していないに等しい)。そうでありながら、100時間以上は普通に遊べ、お金を稼ぐ方法が沢山あるので、プレイヤーの数だけ本作に対するイメージや評価は異なるのではないだろうか。言葉では形容しがたい奇妙で時より可愛い動物、ジュラ期の想像で描かれたみたいなドでかい植物、地球よりもはるかに広い惑星に着陸して歩く感覚、見たり想像するしかなかったSFの世界を最も体感できる作品は、本作を置いて他にはないのではないだろうか。

 

 

OCTOPATH TRAVELER

見間違いではありません、そのオクトパストラベラーです。端的に申し上げて、日本のRPGが嫌いなのだが、本作はそのネガティブイメージを跳ね除けてくれるほど面白かった。8人のプレイアブルキャラがいるが、誰から始めるかも自由、どのタイミングで仲間を増やすかも自由、どのキャラのストーリーから進めるかも自由で、オープンワールド作品のような印象を受けた。各キャラが集合していなくてもストーリーを進めることが可能なゲーム性の為、会話の当事者が少なく、不要な揉め事なくサクサク話が進む感覚は非常に良かった。一方で、時より発生する仲間同士の会話も軽妙で趣があり、最早普遍的なJRPGの構成へのアンチテーゼにすら感じた。レベルも上がりやすく、各エリアの適正レベルも表示されるので、初心者から上級者まで楽しめる良作だと思う。唯一の欠点として、実績関係が後付けなためか、全ての宝箱を開ける、全てアイテムを集める、全ての敵の弱点を調べる等、何かにつけて全てを要求してくるわりに、ゲーム内では詳しい進捗を一切調べられず、取り返しのつかない要素が多数あるのは、流石の筆者もキレかかってしまったので、次回に生かして欲しい思った(それを考えないのであれば非常に面白いことに相違ない)。

 

OUTRIDERS

地球に代わる安全な惑星に降り立つも、やっぱり安全じゃなかったパターンRPGシューター。特別な能力に目覚めたあなたは4種類のクラス中から好きなものを選んで好戦的な原生生物や謎の原人と戦う(あっちからしたらこっちが侵略者なので当たり前ではある)。最大3人までオンラインで共闘できる。ランダムドロップの装備を拾って徐々に強くなるのだが、本作の肝はキャラクターのスキルの振り分けによるビルドと、それに合わせた装備を整えることなので、身もふたもないことを言うとボーダーランズ3に近い。本作独特の仕様として、スキルでダメージを与える事で体力回復が可能なので、ガンガン突き進んで敵をテンポ良く倒していく感じは、良い意味で大味でストレスが少ない。ちなみにストーリーも個人的には中々の高評価で、冗長的な話し合いもなく暴力で次々解決していくので見やすかった。発売前は、アップデートせずに出たもので終わりですというスタンスだったが、想像以上に売れ行きや評価が良かったこともあり、何かしらの拡張要素とシリーズ化も示唆されているので、今やるの?そうでしょ。

既にムシできない名作である『Grounded』を大人に遊んで欲しい

自分でも吐き気を催すほど寒いタイトルだが、『Grounded』という素晴らしい作品を前にしては仕方がないという気持ちである。

 

『Grounded』はミクロアドベンチャーよろしく、全長1㎝ほどまで小さくなってしまった少年少女が、広大な家の裏庭で獰猛な節足動物と戦いを繰り広げるサバイバルオープンワールドゲームである。

 

本作はまだゲームプレビュー版であるため、回避不可能な理不尽バグや、草が生えているだけで虫すらいないエリアなどが散見されるが、それ補っても余りあるほど素晴らしい要素に富んだ作品である。

 

 

時は2020年、食物連鎖ピラミッドから転落した人類。

 

序盤は素手でも殴り倒せるダニやアブ、攻撃さえしなければ無害な働きアリしか出てこないので、無意味に草を刈ったり朝露を吸ったりマッシュルーム(幻覚効果は無い)で腹を満たすだけの牧歌的な内容であった。

 

大体周辺の安全性を確認したところで、やはり我々は道具の扱いに長けた霊長類なので、手斧や石槌、スコップ等で資源を収集して、簡易的な家屋の建築に着手した。

 

日本中どこでも見ることができる草(カヤツリグサみたいなやつ)が数えきれないぐらいそこら中に生えているので刈りまくり、それを壁として設置することができる。とりあえず囲って、ドアとか天井は後から考えようという算段だった。

 

壁の一部を崖を利用することで節約しようとしたのだが、これが大きな失敗だった。早い話、崖ギリギリに壁を設置することができず、どうやっても隙間ができてしまうのだ。そして、気づくとお世辞にも家とは言えない囲いの内側を働きアリが闊歩していた。

 

初めてアリを殺した。

 

アリさんは我が家に置かれたストレージの中身を漁り、食べ物を盗んでいく習性がある。いや、盗んでいくというは、あくまで人類の所有権的視点から生まれるもので、あっちからすれば「あら、こんなところに美味しそうなのがあるじゃない」という湘南マダムのデパ地下試食スタイルだ。

 

自分が弱肉強食だけがルールの大自然に放り出されたことも忘れて、怒りに任せてアリさんを撲殺してしまったのだが、この時はまだあんなことになるとは予想だにしなかった。CMの後、筆者の身に衝撃の展開が訪れる。

 

 

夜にめちゃくちゃデカい兵隊アリと働きアリが我が囲いに大挙して攻め込んできて死んだ(オチがクイック)。

 

どうやら先ほどの働きアリを倒した時、もう一匹のアリを逃したため、仲間をつれて復讐に来たようだ。

 

ご存じの方もいらっしゃると思うが、アリのアゴの力は人間に換算するとハルクホーガンのマジ殴りを上回る威力がある(筆者調べ)。雑草を地面に刺しただけの壁は瞬く間に壊され、食料やアイテムが入ったストレージやクラフト台、リスポーン地点でもある葉っぱの寝具まで徹底的に破壊された。「蝶のように舞い蜂のように刺す」という比喩表現があるが、今後は「蟻のように敵の所有物は全て破壊」と表現しようと思うまで蹂躙されつくした。

 

何度か降りて戦ったが無意味だった。幸い初期リスポーン地点が近かったので、生き返っては石と草を拾い槍を作って特攻したが本当に無意味だった。そうであるから、筆者は目が真っ赤になり怒り狂うアリさんたちの破壊行為の一部始終を遠くから茫然と眺めているしかなかった。

 

夜が明ける頃には食料は奪われ、数枚の壁と散乱したアイテムだけが残った。自然界を生き抜く大先輩に徹底的にしごかれた。住居侵入、器物破損、窃盗、傷害致死死体遺棄、ここがアメリカの死刑廃止州なら懲役100年はくだらないだろう。

 

人間は学習能力が高いので、壁を2重3重に増強した。しかし、我々の敵はアリさんだけではなかった。

 

 

クサカゲロウは、2㎝前後の小さな羽虫でトンボの親戚的なやつである。そのクサカゲロウの幼虫は大量のアブラムシやハダニを食べることで知られ、益虫として重宝されているらしい。しかし、この世界での我々はそのアブラムシやダニと同等で、この幼虫と目が合うと100%襲われるのだ。

 

まず見た目がめちゃくちゃえぐい。そして理由や訴状もないまま集団で襲ってくるのだ。アリさんの襲撃に備えていた我が囲いは、それよりも更に攻撃的なクサカゲロウの幼虫によって又しても破壊されつくしたのだ。

 

 

人間は学習能力が高いので、崖の上に家を移すことにした。何とかして粘土を集め、おおよそ草よりは硬いであろう土台を作り、草壁を施し、更にビンラーディンの隠れ家よろしく、家の周囲を壁で囲い二段構えの防衛体制を取った。

 

ただ、序盤では粘土は見つけづらく、延べ床面積は2畳だった。目が覚めると筆者は絶句した。家の中に件の幼虫が普通にいた。ちょっと吐きそうになった。しかし、こちらには地の利、つまり粘土台の上に立っているので、一方的に槍で倒せるぞという慢心があった。数秒後、幼虫の牙によって土台は崩落した。妙にオートセーブが多いゲームだなと思っていたが、非常に納得した瞬間であった。

 

「時を戻そう」筆者の心の中の松陰寺も賛同してくれた。人間は失敗から学ぶ生き物ではあるが、一応、もう一度土台の上から戦ってみたのだが、思ったよりたくさん幼虫が湧いていたので、もう一度時を戻した。

 

考えた結果、まず家の壁を自分で破壊し、次に外壁のドアを開けて幼虫を引き付けながら逃げる作戦を実行した。皆さんの予想に反して作戦は成功した。そして家は半壊した。

 

池(に見える水溜まり)の周辺には粘土が沢山湧いているという学びを経て、粘土を好き放題収集して家を増強した。

 

アザミには「独立」や「復讐」などの花言葉があるらしい。こと本作においてアザミのトゲは、矢とトゲトラップの制作に欠かせない重要なアイテムの一つである。

 

現状のバグの中でも結構ヤバいものの1つに、「アリが壁や物理的距離を無視してストレージを漁る」というものがある。壁を何重にしようが、何階建ての家を作ろうが働きアリはお構いなしにストレージにアクセスして食料を盗んでいくのだ。令和のルパンは裏庭にいた。

 

翻って、筆者も一端の人類なのでアリの窃盗パターンは熟知していた。彼らは必ずストレージに一番近い壁から遠隔アクセスしてくる。それを逆手に取って、その壁の前にトゲトラップを設置したのだ。こうすれば、空き巣被害に遭う前にアリを刺殺することが可能である。なんて面白いゲームなんだ…筆者は感心しきっていた。

 

それを嘲笑うかのようにアリは窃盗を繰り返した。このトゲトラップのダメージ判定は触った時に1回だけチクっとなるだけなので、最初1発以外はダメージを与えられないのだ。窃盗に夢中(夢虫?)のアリさんを背後から撲殺したものの、どうすんだよコレ、囲いの中もいっぱい置いちゃったじゃん…。ビデオゲームをやり過ぎると結果を予測して行動しすぎてしまうことがしばしばある。策士策に溺れるの典型パターンだった。

 

そんな筆者を救ったのが誘因トラップだった。ちょっと遠出すると落ちている花びらで作れるお花のトラップ。攻撃性は無いが、とにかくアリが群がってくる。本当にそれだけなのだが、周囲のアリたちはお花の前に立ちすくみ何もしなくなるのだ。なんかヤバイ煙出てんじゃないかと心配になるが、こうして序盤から悩まされたアリさんマークの窃盗団から解放されたのであった。

 

 

槍や弓でなんとかして狂暴な兵隊アリも倒せるようになった。はやり脳の容量が多いものが勝利するのだ。兵隊アリから採れるアイテムでアリ防具とアリ武器(モンハン感あり)を作ると世界が一気に広がり始めた。

 

初めて見たときデカすぎて尿漏れしそうになったテントウムシや「目が合ったら即死は避けられない蜘蛛」を簡単に殺して見せたカメムシを倒せるようになっていたのだ。そうやって調子に乗っているとケツから酸を噴射する虫に秒殺されたり、新たに建てた家の中に蜘蛛が入ってきて瞬殺されたりするのだ。

 

筆者は現在できることはほぼやり尽くしたが、これ以上はネタバレ不可避なのでここで筆を置きたい。

 

 

繰り返すが本作はまだゲームプレビュー版なので、回避不可能なバグが多くあるが、それに遭っても「仕方ないな」で済ませられる自分がいる。それほどにこの裏庭での冒険は非常に刺激的で、同時に考えさせらることも多い。

 

プレイヤーは虫たちの世界にお邪魔しているにも関わらず無差別に虫たちを殺し、無秩序に自然を破壊し資源を貪り、テリトリーを壁で囲い家を建て、過剰なまでに武装し狩りを効率化していき、何かに指示されているかのように生態系の頂点に立とうとしてしまうのだ。

 

目の前を横切る無害で無力な虫を気分次第で殺すことも生かすこともできる。

 

子供も遊べる牧歌的なゲームの表情をしているが、内包されている哲学的問は最も忘れがちな普遍的なものであった。大人こそこの作品をプレイして欲しいなと思いながら、筆者今日も裏庭を走り回っている。

短編集「まだ誰にも話していない話」

時計の時刻を直さない

今筆者の目の前にある時計は01:48を指しているが、実際の日本時間は01:46である。見た目からしてこの置き時計は電波式なのだが、なぜか、ずっと1分ちょい早い。しかし、特に直そうという気はない。なぜなら、ソシャゲのデイリー期限に気づいた時、ちょうどの時間だと、文字どおり時既に遅しなのだろうが、1分ちょい早いだけでそれを防ぐことができているのだ。思い返してみると、実家のリビングにあったメインの時計は、親の意向で5分ちょい早く設定されていた。

 

そういうこともあって、腕時計を付けて働いていた時も、その短針はいつも異国の時刻を指していた。その電波式腕時計は一見するとピッタリ3時間遅れているのだが、日付の部分をよく見ると昼過ぎぐらいに次の日になっているのだ。つまり、3時間遅いのではなく、9時間早いのだ。日本よりも時間の早いニュージランドやフィジーでさえマイナス3時間なので、先ほどは「異国の時刻」と表現したが、実際にはどこの時刻でもない。単に狂っている時計なのだ。付け始めた時こそ正確に日本標準時を指していたが、気づけば何時でもない何時かを指し始めた時計。器用にも筆者はその状態でも1ヶ月ほど使っていたのだが、時計をつけ忘れたことに帰宅して気づいたその日に、無くても困らないことを知って、付けるのをやめた。早い話、腕時計が無くても困らない程度の仕事だったということだろう。ちなみに、その腕時計は、今はもう動いていない。

 

 

公園のトイレでした覚悟

数年前の夜8時ほどのこと、筆者は散歩をしていたのだが、仕方なく公園のトイレに駆け込んだことがある。その公園は、この先にあるスーパーと、同じ距離を後ろに下がった場合入れる激安の殿堂の、ちょうど中間地点にある。激安の殿堂方向から来た筆者にとっては、行くも地獄、戻るも地獄であったので、選択肢としては、その公園のトイレに入る他なかった。

 

品の良い幼稚園に併設されているその公園のトイレは、お世辞にも品が良いとは言えなかった。驚くほど軽いベニアのドアを開けると、当然ながら、いわゆる和式便器と目が合う。最も和式便器に遭うことが多い場所と言えば都内の地下鉄駅だが、「自分以外の人間は肛門が背中についているとしか思えない跡の濁し方」に遭遇することも少なくない。そして、この和式便器も例外ではなかった(お食事中の方、大変失礼致しました)。そうは言っても、これ以外に個室はないので、ドアとは比べ物にならないほど重くなった腰を下ろしたが、ふと上を見上げてしまい後悔した。筆者の影を真っ黒に染めるほど明るい裸電球は、同時に個室トイレの天井コーナー全てを支配している蜘蛛の巣と、そこで死んでいる名前も知らない無数の羽虫の存在を教えてくれた。自宅では何も考えずに済まされる行為のド序盤で、こんなにも思考を巡らすことになるとは思いもよらなかったが、個室の罠は留まることを知らなかった。

 

勢いよく入ったこともあって、筆者はドアのカギをかけていないことに気付いた。振り向いて気づくと、ドアは半開きならぬ、半半開きにまで迫る勢いで内側に開こうとしていた。慌てて右手でドアを押さえつけ、鍵をかけようとしたのだが、驚くほど軽いベニアそれは、同時に驚くほど立て付けも悪く、鍵の凸と凹をマッチングさせるのは困難を極めた。腰を半半浮かせて必死に鍵をかけようとした筆者だったが、道具が無い人間には成す術が無いほどベニアのそれは歪んでいた。致し方なく(排泄を致し始めてはいる)そのまま右手で背後にあるベニアのそれが開かないよう押さえつけていた。押さえてはいるものの、不安からか、後ろを振り向いてベニアのそれが開いていないか注視していた。その姿勢は正に、クラス対抗リレーで前走者からバトンを受け取らんと待ち受けている様だった。

 

そんな、明らかに弱点だらけの格好で排泄中の筆者に近づく者があった。夜も更け始めた公園の砂利を自転車のタイヤが踏みつける音がした。自転車を止め、一歩づつこちらに近づいてくる。ベニアのそれを押さえつける右腕と肛門に一気に力が入った。この辺に住んでいる人なら、この個室トイレの鍵がかからないことを知っていてもおかしくはない。また、公園の周囲にはぼんやりとした街灯しか無く、筆者の頭上の裸電球だけがこの公園の夜の太陽だった。「この野郎、俺がトイレに入るところを暗闇から見張ってやがった」。そう心の中で叫んだが、もしベニアのそれを外側から蹴られればひとたまりもない(まだ流していないので溜まってはいる)。こんなところで・・・と、この後起こる最悪の展開をスーパーコンピューターの如く予測して、筆者は覚悟を決めた。

 

しかし、その野郎は個室トイレに併設された事実上男性専用の便器に水をかけ始めた。要するに尿だ。放尿中の吐息からして60代は過ぎているのではないかと推察した。尿音が終わると、別のスピードの水音が聞こえた。要するに手洗いだ。水音が止むと、次は足音がして、それからまたタイヤが砂利を踏む音がした。

 

スーパーコンピューターの排熱のため、口から大きな息を吐いた。こういう話の場合、たいていトイレットペーパーは無いのだが、普通にあった。ケツを拭いてから、手を離したので勝手に開いていたベニアのそれに別れを告げた。それからすぐ帰宅して、いつも熱いシャワーを浴びながら、この世にはうんこを漏らすことより恐ろしいことがあるのかもしれないと思った。

 

 

夢の中で会った人だろ

昔から物凄い頻繁に夢を見る。ほぼ毎日と言っても良い。寝た瞬間に朝になることはあまりない。殆どの場合、1日は24時間ではなく夢の中で過ごすプラス1、2時間があるのだ。他の人の夢の話を聞くと、起床して着替えて電車に乗って会社や学校に着いたぐらいで目が覚める人もいるらしい。筆者も起きて着替えて歯を磨くぐらいの夢は見たことがある。しかし、夢の中で自分が存在している場所が自宅であることは非常に少ない。そのほとんどは学校である。

 

自分以外の登場人物からして、その舞台は高校ではない。中学校でもない。夢の8割ぐらいが小学校なのだ。筆者の中学校の生徒は半分ほどが、小学校が同じ人だったので、逆輸入的に小学校時代の人々の中に中学校時代の人も混じって出てくることがあるので非常にややこしい。高校時代の人々は、年に1回あるかないかぐらいでしか登場しない。大学時代は、そもそも友達が居ないので出代がない。

 

ほとんどの場合の彼ら、彼女らは12歳ぐらいの見た目とテンションで、実際の当時の仲良し度は特に関係なく接してくる。同じ人でも筆者に対する好き嫌いが夢毎に違ったりもするが、好きだったけど嫌われていた子が好意的なパターンもあって、起き掛け凄い嬉しい日が極稀にある。話している内容とか、何をしようとしていたかまでは忘れてしまうのだが、会った人のことは覚えているので、毎朝、なぜ毎夢小学校時代に飛ばされるのか不思議でならない。

 

それから、それとは関係なく、高確率で毎回課されるテーマとして「早く行かないと」というのがある。家であったり、勤め先であったり、遊園地であったり、都会の駅であったり様々だが、とにかく早く行かないといけないのだ。しかも、ほとんどの場合、間に合わなそうな感じがしてずっと辛いのだ。急がないといけないのだが、忘れ物に気付いたり、乗り遅れたり、誰か足手まといがいたりして、たいてい上手くいかない。そして極めつけは、自分が早く移動できない。

 

これは、夢を見る人の中ではあるあるだと信じたいことで、子供の頃からずっと悩まされている。どうやっても足が物理的に重くて、前に進めなかったり、強い引力で逆方向に引っ張られていたり、マイケルジャクソン並みの角度で前のめりで斜めになっているのに、全く前に進んでいかないのだ。たまに自転車に乗っていることもあるが、その場合もペダルが重くて前に進めない。例外的に、極稀に自動車を運転している場合は、ほぼガードレールにべた付け状態で走行することができる。この動けない問題については、実際の身体は寝ているのに素早く動こうとしているから、その時だけ実際の身体の方の状態が優先されて動きづらくなるのだと解釈している。

 

実は、1つの夢を見ているのではなく、断続的に見た夢を1つのものとして認識しているという説を知ってから、多少見え方も変わってきた。寝起きで思い返してみると、確かにあそこからの展開は急だったなとか、一瞬でもの凄い距離を移動したな、ということはある。ただ、その日の夢でなぜかどの場面でもずっと一緒にいてくれる小学校時代の人がいるせいで、どこが夢と夢の境目だったのか判断に困ることも少なくない。

 

大人になってから知り合った人は、ほとんど出てくることがない。夢の最中なので意識することができないが、たぶん自分も子供の頃に戻っているからだと思う。ただ、気持ち悪いのは、たまに凄い仲の良い全く知らない人が出てくること。顔も名前も知らないが、何年もずっと一緒だったかの様に接してくるのだ。

 

ちゃんとサブタイトルを回収できて偉い。

深夜に好きな曲について語るのが最も健康に良いらしい

フジファブリック「TEEMAGER」

同名のアルバムの一番最後の曲。フジファブで一番好きな曲は「星降る夜になったら」なのだが、今夜はこちら。爽やかで疾走感のあるメロディーが覚えやすくてとても好きだ。歌詞に「朝まで聞くんだAC/DC」という部分があるが、彼が好きだったものが、こうして歌としてずっと残っているんだなと思ってからは、より一層愛おしく感じるようになった。こういう様に、その人が好きだった場所やモノが書かれている詩は凄く良い。その場所や同じモノを手に取った時に、その人の一部が入ってくる感じがするからだ。20代後半ぐらいにふとこの曲を電車で聴いた時、少し泣きそうになった。いつの間にか自分もTEENAGERではなくなってしまったから。でも、初めてこの曲の本当の良さみたいなものに触れられて、嬉しくもあった瞬間だった。

 

 

餓鬼レンジャー「ONE (feat. SUGAR SOUL & JESSE (RIZE / The BONEZ))」

ガキレンにSUGAR SOULRIZEのJESSEが参加した楽曲。実は、初めて聴いた時は、良さが全くわからずリピートすることは無かったのだが、半年ぐらいしてたまたま聞き直した時に物凄く感動して大好きになった。それで、JESSEが逮捕されたときに「もう聞けなくなるかも!」と急に焦って買った思い出。まず何よりビートが良すぎる。アコースティクギターのリフが本当に素晴らしくて頭から離れなくなる。もちろんラップも最高。ガキレンらしくライムはめちゃくちゃ固いのにメッセージ性が物凄く強いし、JESSEもそれに全く引けを取らないフロウとリリックで本当にかっこいい。そしてフックで歌い上げるSUGAR SOULが全てを調和させていてこれぞONEだなって感じがする。元々マイクリレーは好きだが、男女混成になるともっと素晴らしくなると思っている。物凄い鬱々として寝れずに迎えた朝4時に聴いた時、本当に食らった。最高のHIP HOP。

 

 

黒崎真音X-encounter

BSでアニサマの2014をやってるのを見たときに、たまたま出会って衝撃を受けた。この曲が主題歌のアニメを見ていないので歌詞の内容は全く分からないのだが、とにかくかっこいい。適当に入ったラーメン屋でお袋の味がするラーメンに出会ったぐらい、なんでこんな的確に弱点を突いてくる曲が存在しているのか不思議だった。首を振らざるを得ない激しくも機械的なトラックに、黒崎さんの芯の通った力強いヴォーカルが最高にマッチしている。イントロからして既に最高なのだが、特にラスサビの展開がこの上ないぐらい好きなのだ。終盤にメロディーラインが落ち着いた雰囲気に変わって、歌詞も抒情詩的な語り口調になるのが、6分という比較的やや長めの本曲を最高の形で終幕してくれる感じがして本当に良くて良くて。テレビでこの曲を聴いた時、本当に衝撃的だったのだが、曲の最後にテロップで出た作曲編曲者の名前を見て崩れ落ちた。高瀬一矢さんだった。当時は、MELL様の最後のライブから4年、最後のアルバムから2年ほど経っており、なぜかもうI'veの曲を聴くことは無いだろうなと勝手に思っていた。しかし、親鳥の鳴き声は一生忘れないというか、たった1曲でここまで心を惹きつけてくるのは本当に凄いなと思ったし、同時に自分どんだけタカーセ好きなんだよと思った。ちなみにRayさんの「As for me」でもこれと全く同じ体験をしたので、知らぬ間にそういう条件付けが成立しているのだと思う。

 

 

SOFT BALLET「ESCAPE」

実は、最近知った。筆者は大の森岡賢好きだが、作曲は藤井麻輝さん。ソウルは近い2人だが、見えた景色の描き方は違うなと思う。原曲とバージョン違いがあり、筆者が好きなのは2013年の「DOCUMENT」に収録されたバージョンだが、正直どれも良い。広島に原爆を落としたパイロットの心情(所説あり)を描いていながら、シンセサイザーは流れるように優しく、ドラムは美しい4ビートで非常に心地が良い。ヴォーカルも遠くを見据えながら包み込む様で軽やかで、しかし、どこか寂し気なところも非常に訴えかけてくるものがある。暑苦しさや押しつけがましさは一切無く、心にスっと入ってくるシンセポップで平和を願う姿は、聖母か天使のそれだと思う。一方で、過去のTVライブ映像を見ると、力強くメッセージを込めて歌っている姿があって、これも素晴らしい。藤井さんの正確無比な鍵盤捌きも最高だし、サビでモリケンがハモるのも最高。

 

 

KOKIA「たった1つの想い」

みんなが好きではない方(嫌味)のアニメ「ガンスリンガーガール」のオープニングだった。筆者はこっちのガンスリしか見たことが無いので、ガンスリと言えばこれ。インターネットでこっちの悪口を見る度にとても不快になる。不満なら文字どおりまだ五万とあるがこれぐらいにしておきたい。とにかくメロディーラインが最高。悲しくて寂しい、危うくて簡単に折れてしまいそうなのに、サビでは物凄いパワーがあって、ちゃんと光や希望もあって、ガンスリの全てがこの1曲に詰まっていると言っても過言ではない。歌詞も本当に良くて、1番のAメロから「疑問だらけの世の中 答えはまだ見つからないまま それでも前に進むの Why?」からもう一発で心を撃ち抜いてきて、「空へと伸びるイトスギ」や「丘の下咲くヒマワリ」も(行ったこもない)イタリアの風景が広がっていく様で大好きだ。普遍的な社会へのメッセージとガンスリの世界観が凝縮されていて、いつ聞いても色褪せることのない名曲だと思う。

 

 

Fear, and Loathing in Las Vegas「Starburst」

昔、仕事でめちゃくちゃ嫌なことがあった帰り道、爆音で「Virtue and Vice」を聴いてストレスを爆散して以来、ベガスのことが大好きになった。当時は、なぜか毎週末渋谷に通っていたのだが、渋谷という巨大な街に飲み込まれないよう、改札を出たら大音量でベガスを聴くのが定番化していた。その中でも特に大好きで一番テンションが上がったのが「Starburst」だった。正直未だに何を言っているかは分からないのだが、分からないのにこんなにアガるのは本当に凄い。生まれてから少しずつ築き上げていった理性ではなく、生まれ持っての本能に直接浴びせられているのだと思う。特にサビが本当に最高で、頭の上の部分が破裂して一気に景色や世界が広がっていって解き放たれる感じがする。そしてラスサビのスクリームで地球を飛び出して宇宙までぶっ飛んで行って最高の気分に高めてくれるので、本当に中毒性が高い。この、身体が軽くなって気持ちが宙を舞う感じが、アルバムタイトルの「Feeling of Unity」なのだなと筆者は思うよ。ちなみに同アルバム内だと「Gratitude」も凄い好き。

 

 

にーそっくすす「精霊剣舞祭」

1番はアニメのキャラクターの心情を歌っているのだが、本当に凄いなと思うのは2番の方だ。当時、メインキャストの中では木戸衣吹さん以外はほぼ無名と言っても良いぐらいで、これから駆け上がっていきますという勢いは凄かった。その瑞々しい姿と2番の歌詞の絶妙なリンク具合が凄く好きだ。「光輝くため暗闇に飛び込んでいくの 無茶とわかってても」や「あの日の悔しさはもう 今となれば希望論よ」という、HIP HOPで言うところのパンチラインが、リスナーよりも、歌っている彼女たちにこそ最も刺さっていたのではないかと思う。イントロから続くバグパイプの独特な音色は非常に高揚感があり、ライブでも一気にテンションが上がるし、ハンドクラップが多用されていることもあり、一体感があって非常に盛り上がったように記憶している。間奏のエレキギターも凄く良いし、ヴァイオリンも機動性があってとても聴きごたえがある。そういうわけで、筆者のアイフォーンには原曲だけでなくinstrumental版も入っている。それぐらいトラックが素晴らしいのだ。にーそっくすすは、恐らく復活することが無く、映像も残っていないのが本当に残念でならない。もう5年以上前のことだが、当時現場に通っていた人は未だに振りコピできると思う。それぐらいファンの心に確かな思いを刻んでくれたグループだった。

 

 

BOOWY「B・BLUE」

「CLOUDY HEART」と迷ったが、そちらは好きよりも悲しさが勝ってしまい、辛くなってしまうのでこちらにした。印象的なドラムから始まって、Aメロの歌いだしから非常にリリカルで良い。彼らは激しさや攻撃性が高かった分、反対側の弱さや優しさも人一番持ち合わせていたのではないかと思う。サビで布袋がハモるところも好きだし、間奏の布袋のソロギターは歌詞で言い切れなかったことを代弁して泣いている感じがしてそこも最高に好きだ。筆者は音源至上主義的なところがあるのだが、BOOWYだけは当時のライブ映像やTV映像に残っているその瞬間の彼らが最高だなといつも思う。音源では綺麗に歌い上げていて、それも美しいのだが、ライブであの独特な歌詞を切り気味みにして歌う氷室の姿が儚過ぎて惚れ惚れする。1番のAメロBメロの後、サビに行かずそのまま2番のAメロBメロを繰り返してから、あとはずっとサビとBメロで嘆きながら回顧しているのが、何故か本当にもうどうにもならないんだろうなと感じてしまい、より一層悲しさや虚しさがあって、それをこんなにかっこよく歌っているのが、凄くズルい。好きにならざるを得ない。

 

 

 

なんとなくジャンルを分けて偏らないようにしたのが、姑息で嫌だなと思った。ちなみに「姑息」には「その場しのぎで」という意味が含まれているので、一般的な使われ方では的を射ていないらしいです。書いてたら朝になったので、次回も気が向いたらやります。

日記のタイトルなんて考えても一生結論は出ない日の日記

2020年2月9日、日曜日、筆者は有楽町にいた。RASことRAISE A SUILENのライブをライブビューイングするためである。

 

有楽町とは東京の地名である。東京都、千代田区、有楽町。ちょっと歩けば日比谷、逆側にちょっと歩くと銀座、そのどちらでもない方向に進むと東京駅、もしくは新橋に着く。新宿渋谷や秋葉原上野といったTHE・TOKYOといった喧騒や良くも悪くもゴチャっとした感じは無いものの、ビルはめちゃくちゃ高いし、道路はめちゃくちゃ広いし、チェーン店もほぼなんでもあるし、行きかう人は皆どこか落ち着いていて、自然と筆者も顔つきがシャープになってしまう。個人的に、正に東京だなと感じる街である。

 

 

当たり前の様に待ち合わせ時間を過ぎて有楽町駅前に降臨した筆者。そして、当たり前の様に待ち合わせ時間を過ぎて現れたCさんと合流し、映画館へと向かった。

 

映画館と言っても、館そのものがあるわけではない。色々なお店が詰まったビル、ルミネの中に映画館があるわけだ。しかし、それっぽいビルの案内板を見ても映画館は見当たらない。また、Twitterの情報によると、開演時間が1時間5分延びたらしいので、茶しばいてから映画館いけば良くね?と思ったので、とりあえず目の前にあったカフェーに入らないか?とCさんに言ったら、普通にシカト(無視)された。よくあることなので気にしなかったが、回答はNOということで、引き続き映画館を探した。

 

駅に行く途中、このビルに映画の広告があったのは確かなので、ビルの外周を回って正面っぽいところまで移動した。ただ、この日は非常に寒く、筆者はスキニージーンズだったので、寒さからくる不安と怒りと便意に震えていた。外周を歩いている時間が永遠に感じられた。

 

正面っぽいところに来ると、やっぱりこのビルがルミネで映画館も入っていた。終始本当にこのビルで合っているのかいぶかし気だったCさんに対して、「ホラな!」とかちどきをあげた。

 

映画館はルミネの9階に位置していた。なるほど、どうりで案内板を見ても見つからないわけだ。何がなるほどなのか筆者にもわからないが、とりあえず昇降機(エレベーター)に乗り込み9階へと上昇した。すごい速さで9階に着いた(体感2秒)。

 

心なしか映画館の従業員の方は慌てていた。急遽開演が後ろ倒したからだろう。その開演時間まで、まだ1時間程度あるので、筆者は茶がしばきたかった。しかし、Cさんがとりあえず入ろうと言うので入ることにした。

 

なんとなくネット画像検索でスクリーンの感じはつかんでいたが、想像より数倍スクリーンは大きかった。真ん中ほどの席だったが、感覚的には大仏を見上げるときの感じに似ていた。この劇場は2階席もあるのだが、2階の一番前で見るのがベスポジ(best position)のようだ。

 

それよも驚いたのは、観客の少なさだった。目測だが、30人もいないぐらい。いわゆる「客より店員の方が多い」ほどではないが、着席以外はすべて空席だった。理由について色々と想像はつく。まず、ライブ会場現地のチケットが当日券であるぐらいなので、熱心な人はほぼ現地なのだろう。ただ、会場が「静岡県袋井市愛野」という、「近いのか遠いのか想像できない」心の距離(distance)があるのもまた確かで、ほどほどに熱心な人を足止めするには十分な要素であったことは想像に難くない。いっそ、名古屋!大阪!北九州!札幌!とか言われた方が、「じゃあついでに」ということもさもありなんなのではないだろか。知らんけど。

 

もちろん、全国の他の映画館でもライブビューイングは行われているので、すべて筆者の妄想である。

 

開演時間が押したことは知っていたが、実際上ライブビューイングの方がどんな感じになるのか着席して待機していた。ほどなくして、映画館の方から時間延期の旨が伝えられたので、筆者はお手洗いに急行した。この時ほど開演時間延期の神に感謝したことはない。

 

再び席に戻ったが、いかんせん手持無沙汰だった。あと50分ぐらいこの状況に耐えられるか?否!と思ったところで、Cさんから一時退館の申し出があった。是非もなし!と食い気味に一度映画館を出ることにした。

 

下の階にカフェーがあったので入ろうとしたが、すごい混んでいて入れなかった。是非もないので映画館に戻ることにした。「恥ずかしながら帰って参りました」と言わんばかりの表情で再入場した。

 

普段は小腹を満たすレーション(携帯食料)を携行しているのだが、この時ばかりは持ち合わせがなかった。しかし、今はお昼ごはんとお夕食の間の時間、すべての人がお腹が空く時間だと聞く。するとCさんが「〇〇あったら食べる?」という申し出があった。小学1年生のような元気な表情と声で「うん!」と答えた。正直何を食べさせてくれるのか聞き取れなかったが、餌付けしてくれるならなんでもよかった。

 

そういえば、先ほど筆者がボルト並みのスピード感でお手洗いに急行し、戻ってくるとき軽食売店の前を通り過ぎた。定番のドリンク、ポップコーンはもちろん、アイスクリームや皮付きポテトフライ、更に焼きおにぎりや「黒豆ぐらっせ」なるものまであった。

 

ハリーポッターと賢者の石ばりに「ポテトフライが良いポテトフライが良い」と心の中で唱えた。いや、というか筆者的にはもうポテトフライが来るものだと錯覚していた。人間の認知とは恐ろしいものがる。

 

Cさんが戻ってきて、ボリボリ食べ始めた。

 

「あっ、ポップコーンなんだw」

 

何がwなのかCさんにはわからなっただろう。当たり前である。

↑意図せずWとCが並んでしまいました。お食事中の方、大変失礼いたしました。

 

「味のばらつきがすごい」と言われて筆者のターンが来た。袋の中を覗くと、真っ白なポップコーンと変色していると言っても過言ではないほど黄みがかったポップコーンが点在していた。何粒が食べたが、無味~カレー味まで様々だった。もうお気づきのとおり、自らで袋を振って味を均一にするタイプである。

 

「これ振るやつでしょ?」とたまらず指摘してしまった。もちろん、多少おかしくはある。戦後に米軍経由で日本に持ち込まれたポップコーン。アメリカでは映画館のポップコーンが農家を救ったなんて話もあるらしい。映画館とポップコーンは切っても切れない関係だが、「映画館ポップコーン問題」はかねてから存在している。ただでさえ気になる人は気になるポップコーン音。それが、食べる前にシャカシャカ爆音を鳴らしてから食うなど、反ポップコーン派からすればとんでもない蛮行である。

 

そうはいっても無味コーンとカレーコーンばかり食ってはいられないのでシャカシャカした。味が均一になった。均一にはなったが、味はカレーのままだった。たまらず「これ何味買ったの?」と指摘してしまった。タダでおこぼれを頂戴しておきながら、味のチョイスにまで口を出す。時代が時代なら切り捨てられても文句は言えまい(理由:死人に口なしだから)。

 

コンソメだよ」

 

耳を疑った。コンソメ?これが?

 

筆者は以前、何味かわからないパンを食べてグベーっとなったのだが、それがチーズパンだと告げられた瞬間に笑顔になったことがある。重要なのは、何を食べているかではなく、何を食べていると思っているかなのである。味そのものではなく、何味なのか、その情報を食べているのだ。これは、「カキ氷シロップの味全部一緒問題」にも通じるところがある。

 

コンソメと知った上で食べてもやはりカレーである。筆者は、店員さんがコンソメフレーバーとカレーフレーバーをかけ間違えたのではないかとすら考えた。人間は理解不能な事態に陥ったとき、自らの想像できる範囲内でその事象を正当化してようとしてしまう。

 

そもそも、その売店にはカレー味自体売っていない。どう転がしてもこれはコンソメ味なのだ。そうであるなら、これはいわゆる「自分をコンソメ味だと思い込んでいるカレー味」なのだろう。

 

そんなこんなでコンソメポップコーンを食べ終えた我々に開演時間が迫ってきた。

 

始まった。最高だった。しかし、やはりスクリーンは巨大で、終始見上げる姿勢を強いられた。途中、あまりにも首が疲れて下の方を見ると、見切れているドラムしか見えなかった。もう一度首を上げると、ボーカル兼ベースのレイチェルさんの顔が大仏様の顔の位置にあった。いや、彼女を指して言うなら観音様の方が近いかもしれない。「ライブビューイング」も戸田奈津〇風に翻訳すれば「観音」になる気がする。今日も紡木さんはかわいいし楽しそうで何よりだった。RAISE A SUILEN最高、そう表現する他なかった。

 

最後の方にサプライズ的な発表があった。筆者は、次のライブとかアルバムとかかなと思ったら、RASの舞台をやるということだった。斜め上過ぎて笑った。

 

そういうわけで映画館を後にしたのだが、開演が押したこともあり、完全に夜ご飯の口になっていた。有楽町については、一番最初に「チェーン店はほぼなんでもある」と表記したが、とりあえず秋葉原に移動した。帰巣本能的なやつなのだろう。

 

Cさんがお寿司の口になっているというので、以前入れなった回転寿司屋さんに入った。結論だけ書くと、もう二度と行かないと思う。そしてファミレスへ梯子し、感想戦を多少して一日を終えた。

3日でバンドリにハマった話

第一章:頭の中がお花畑でいっぱい

 

ある日筆者は、数少ないマブダチの一人であるCさん(仮名)に「日曜おごるからバンドリの映画みようぜ」と誘われた。

 

この時点でバンドリについて知っていることは「バンドのアニメ」ということだけだった。要は何も知らない。

 

せっかく無銭で映画が観れる(オタクは無銭が大好き)のなら予習して最大限たのしまなくっちゃ!(全曲聞いてからじゃないとライブに行かないタイプのオタク)と思った筆者は、さっそくインターネットのGoogleでバンドリについて調べてみたのだ(ここまではナイツの漫才の導入と同じ)。

 

映画の公開記念ということで、Youtubeでアニメの第2期が無銭で観れる(オタクは無銭が大好き)という情報をキャッチし、早速Youtubeでバンドリの二期を観ることにしたのだ。

 

「あっ、これ3Dなんだ」

 

きらりんレボリューションの第3期(フルCG)を乗り切った経験のある筆者にとっては、特段の違和感なく馴染むことができた。唯一のネックであった「キャラの名前と声と顔が覚えられない問題」も、公式サイトのキャラクター一覧を参照しながら視聴する(ゲームオブスローンズ以来2回目)ことでなんとか乗り切ることができた。

 

そして、2日間でバンドリ2期を見た感想は「シンプルにめちゃくちゃおもしろい」だった。木曜日から見始めて、土曜日には一日中おたえちゃん(a.k.a花園たえ)のことで頭がいっぱいだったのだ。

 

好きな声優さん抜きで純粋にアニメにハマったのが何年ぶりか思い出せなかった。特にここ数年はアニメという文化自体が自分のもではない、自分に向けて作られていない気がして疎外感すら覚えていたのだが、バンドリは本当に良かった(急に語彙が終了する)。

 

 

2期後半の内容をザっと説明すると、主人公らのバンドの中核であるリードギターが他のバンドに引き抜かれてしまうんかいされへんのかいいやすんのかいいやせえへんのんかいみたいな感じである。その葛藤が描かれている9~11話は本当にヤヴァかった。もはやヤヴァすぎてエヴァかったと言いたくなるぐらヤーヴェのヴェーヤーなのだ。

 

というのも、筆者はこれまで幾度も自分の好きなバンドが解散したり、好きなメンバーがいなくなってしまうのを経験してきたからである。こと、音楽好きにとっては避けては通れない事柄だろう。ポルノグラフィティTama東京事変のヒラマとヒイズミフジファブリックの志村、解散してしまった三枝夕夏 IN dbGARNET CROW。バンドではないが、でんぱ組.incのもがちゃんが抜けてから2年ぐらいはでんぱの曲は聞けなかったし、狂ったように通っていた(通っている時は狂っているという感覚はない)every♥ing!も解散してしまった。

 

そして、森岡賢の死とMELL様活動休止。今でもその現実を受け止めようとするだけで涙が滲んでくる。

 

 

そうは言っても、人それぞれ、アーティストそれぞれの人生がある。音楽で一生食っていくのも簡単じゃない。ただでさえ、健康で寿命を全うするのだって重なり合った偶然が作った一つの奇跡だ。世の中そう自分の都合の良いように、綺麗で変わらないままではいてくれない。ちょっとCDを買ったり、ライブに行ったり、応援してるよ、好きだよって思うことの無力さを思い知らさせる瞬間でもある気がする。

 

 

おたえちゃんが(みなさん、ここでバンドリの話に戻りますよ)進路に悩む姿に、自分の好きなアーティストの姿すべてが重なってしまったのだ。しかも、それを受けてのメンバーの思いにも物凄く共感してしまった。自分の本当の気持ちと、大切な相手のことを思いやって初めて生まれてくる気持ちとの葛藤、ある種の優しさからしか生まれてこない残酷さや、10代が初めて感じる長過ぎる人生の行く末。とにかく11話で考えさせられることが多すぎて、撞木で後頭部をフルスイングされたぐらいの衝撃を受けたのである。

 

前日まで「なんで同じ配色の髪のキャラがいるんだろうと思ったら双子なのね」とか抜かしていたとは思えない。

 

そして極めつけの『Returns』である。

 

バンドリ、なんて素晴らしいアニメなんだ…。そう表現する他なかった。

 

これで1期も観れたら良いのになぁ~と思ったら観れた。ていうか普通に1期も無銭だった(オタクは無銭が大好き)。ありがとうブシロード…。そう表現する他なかった。

 

結論だけ書くと、1期もめちゃくちゃ面白かった。そして、2期のあそこはそういうことだったのか…という気づきが、無限なのか?ってぐらい沢山あったのだ。正直いきなり2期を観たのでは、各キャラクターのバックボーンや性格もよくわからなかったので、すごく良かった(急に語彙力が終了する)。

 

そして気づいてしまった。これもう一回2期見たらめちゃくちゃ面白くない?もう一回見た。めちゃくちゃ面白かった。バンドリはめちゃくちゃ面白い(急に語彙力が終了する)。

 

 

話が前後してしまうが、2期を見た後に劇場版であるバンドリフィルムライブを観に行った。構成としては、2期の最終回を拡張させたような内容で、5つのバンドの合同ライブをライブビューイングで見に来ちゃいましたwみたいな感じだった。そこで初めて2期のオープニング曲である「キズナミュージック♪」の素晴らしさを知った。演奏している姿から2期の映像をダイジェストでお送りする形式になっているのだが、歌詞との絶妙なリンク具合で泣いてしまった。映画館で泣くのは、「すべてがFになる」の上映会以来だった(4年ぶり2回目)。

 

 これ、ストーリーも面白いし、キャラクターも個性的だけど、曲がめちゃくちゃ強くありませんか?(オタクは強いか弱いかの二択でしか世の中を判断できない)。

 

そして、Cさんの勧めもあり、バンドリのスマートフォン向けゲームであるガルパことガールズバンドパーティー(筆者が長年ガールズアンドパンツァー関連の何かだと錯誤していたもの)を始めたのである。

 

 

第2章:なんでノーツ落ちるの速くするの?

 

筆者が宗教上の理由で絶対にやらないゲームのジャンルが3つある。格闘ゲームとパズルゲーム、そしてリズムゲームである。要する、筆者にはほとんどと言っていいほどに反射神経が無い。ほぼ無いのだ。じゃあなんでFPSやTPSはできるのか、筆者もちょっと良くわからない。

 

とにかく昔から音ゲー、リズムゲーは点でダメであり、避けに避けてきた。いかんせん他のジャンルのゲームはまあまあできるが故に、負けるのが分かっている土俵で戦いたくないのだ。そして、本当に質が悪いと自負しているが、負けるとマジで機嫌が悪くなるので、特に誰かと一緒にやらねばならない場面ではお互いの精神衛生のためにテコでもやらぬと決めていたのである。やらぬ、やらぬ、マジでやらぬの三原則、これにはサウザーもお手上げである(実際サウザー音ゲーをやったら筐体ごと破壊してしまうのでは?というのはまた別のお話)。

 

そんなノーリズマー(リズムゲーをやらない人)の筆者がスマホの大リズムゲーの 一角であるガルパをプレイしようというのは、青天の霹靂と驚天動地を足して2で割ったようなことなのだ。

 

シルル紀にやって以来のリズムゲー、最初はイージーすらクリアできなかった。ただ、気持ちは本気で挑んでいるので、普通に落ち込む。知っている曲ではあるが、サビにすら到達できないのは、本当に悔しい。

 

驚きだったのは、この「悔しい」という気持ち。リズムゲームに対して、生まれて初めて「クリアしたい」という思いが芽生えた。ありがとうおたえちゃん、俺頑張るよ。

 

流石に筆者も大学を出れるぐらいの一般的な学習能力があるので、自然とイージーはクリアできるようになった。そして恐る恐る難易度をノーマルに上げて挑んでみた。

 

「いや別ゲーかよ」

 

という声が聞こえてきそうな感じだった(実際には誰も喋っていない)。

 

そうは言うものの、筆者も大学を出れるぐらいの一般的な学習能力があるので、りんりん先輩の回復スキルのおかげもあって、どうにかこうにかノーマルもクリアできるようになったのだ。なんだ意外とチョロいじゃないか。ということで、臆することなくハードに挑んで即死した。

 

「いや別ゲーかよ」

 

この時ばかりは声に出して言ったかもしれない。

 

右手の指で長押ししてスライドさせながら左手の指はタップみたいのが、本当に無理なのだ。何かの実験に用いられているチンパンジーの気持ちが少しわかる気がした。遊んでいたいつもりが、いつのまにか遊ばれていたのだ。

 

 

そして、バンドリフィルムライブを見に来た(3週間ぶり2回目)。映画館で同じ映画を2回見るのは生まれて初めてだった。正直、同じ映画を何回も見ている人は頭がおかしいのではないかと思ってしまう節があったのだが、その考えが変わることはなかった。頭がおかしくてもいい。頼むからもう一度バンドリフィルムライブを見させてくれ。そんな思いしかなかった。

 

またキズナミュージックで泣いた。逆に泣いてる時に聞いたら泣き止むのかもしれない。それぐらい単純なトリガーになりえるぐらい、フィルムライブのキズナミュージックは素晴らしいのだ。

 

その日に、ガルパ先輩でもあるCさんにハードやその上のエキスパートをクリアするコツを教えてもらった。曰く「ノーツを目で追おうとすると反応が追い付かないので、なんとなく視界に入れながらタップする」と良いらしい。

 

まったく、Cさんとは8年ほどのお付き合いになるが、こちらが教えてを乞うているのだがら、せめて日本語で話してほしいものだなと思った。

 

そしてもう一つのコツは、「ノーツが落ちるスピードを速くした方が良い」と言うのだ。

 

彼が話しているのは、紛れもなく日本語だった。

 

ほんまかいなと思いながら、ノーツのスピードを恐る恐る9.5に上げてみたのだ。これが食べログだったらとんでもない数値である。

 

「いや別ゲーかよ」

 

ほぼキレかけていた。

 

この世には、見学という言葉もあるぐらいなので、実際にCさんにエキスパートの実演を見せていただいた(ノーツは10.7)。

 

結論から言うと、全く参考にならなかった。ていうか、リズムゲーなのに音を聞いていないのだ。柿ピー工場の生産ラインみたいなスピード降ってくるノーツをほぼノーミスかつノーミュージックでさばいていた。え?この人頭おかしくないですか?と、思わず通りかかったジョナサンの店員さんに質問しそうになった。

 

とりあえず、これは練習あるのみだなと思って一度ガルパのことを考えるのはやめた(人間は理解不能な場面に立ち会うと思考が停止する)。

 

それから、声優アニメディアの付録のやーつを見せてもらった。各キャラクターの声優さんの履歴書風の直筆プロフィールみたいな小冊子だったのだが、ロゼリアの湊友希那を演じる相羽あいなさんが好きなカバー曲に『Red fraction』を挙げてくれていて本当に嬉しかった。目の前にCさんがいなければ、小さじ程度泣いていたのではないかと思う。

 

 実は、映画に誘われるよりも以前に、バンドリについて知っていることが一つだけあった。それが『Red fraction』をカバーしているといことであった。筆者は今日に至るまで、不定期的にインターネットでMELL様のことについて情報収集しているのだが、カバーされてから1年後にそれを知ったのである。

 

今思うと、あれはガルパの画面だったのだなと分かるが、当時相当な角度で斜に構えながら聞いた筆者が思ったのは「アレンジは良かった」であった。絵に描いたような反抗期学生の感想である。

 

 当時、筆者が素直にロゼリアRed fractionを褒めちぎれなかったのには色々と事情があるのだが、それを書くと私も疲れるし、あなたも疲れるので今回はやめておこうと思う。

 

 とにかく、いちMELL様ファンの筆者から言えることは、ロゼリアRed fractionは素晴らしいということ、これに尽きる。また、若い皆さんにこの曲を知ってもらえる大きなきっかけを作ってくれたことを本当に感謝しているし、相羽さんが大切に歌ってくれたことに対しては、感謝してもしきれない。筆者はブシロードの本社がある方角に向かって一礼した。

 

 

Red fractionの他にも、ミュージックアワーやカルマ、READY STEADY GOといった世代的に内角低めストレートな曲や、Baby Sweet Berry LoveCrow SongShangri-Laのように、シンプルに好きな曲もあり、カバー楽曲だけを叩いている時期もあった。

 

ここで筆者は重要なことに気づいた。それは、知っている曲ならテンポもリズムもわかるのでクリアしやすいということだった。これならオリジナルの曲もいけるのでは・・・?結論から言うと、いけた。ただ、リズムや歌詞までしっかり覚えている曲が2期のやつだけなので、極端に少ないのだ。

 

もっと色々打ちたい、そういうわけで、ガルパのプレイ動画やライブ映像を見るようになったのである。

 

 

 

第三章:RASのやべーやつ

 

ありがたいことに、バンドリはライブ映像を丸々1曲公式がアップロードしてくれているので、ありがたく色々見て回っていた。ドームとか武道館とかでやっているのをそこで初めて知った。そして、演奏のレベルの高さに度肝を抜かれた。本当の意味でRASことRAISE A SUILENと出会ったのはこの時だったのかもしれない。

 

ロゼリアもRASもドラムがやばい、ギターはRASのやつがとにかくやばい、なんか背面でキーボード弾いとるやつもおる、ギターソロの後にちょっとドヤ顔の紗夜さんかわいい、どっちのボーカルも音源と変わらないぐらい声量があってすごい、なんでステップ踏みながら弾いてるの?ヘドバンするためだけに前に出てくるのウケる、DJなのに歌って卓に登ってるもウケるし煽りを入れていくスタイルめちゃくちゃいいな。

 

 

それから数日間、毎日バンドリのライブ映像を見ていて思った。

 

「ライブ見に行きたいかもしれない」

 

声優オタクとしては冷凍保存状態であった筆者は、ここ数年友人が余らせたチケットの席を埋める要員でしかイベントに行っていなかった。いわんや、ライブには3年以上 行っていない。正直、そういうのはもういいかなとすら思っていたところだった。

 

運良くRASとロゼリアの合同ライブが1週間 後に迫っていた。ちょっとまだ現場に行く心構えができていなかったので、カジュアルにライブビューイングが良いかなと思い、Cさんも誘ってみると二つ返事で連番することになった。

 

前半ではほぼポピパの話しかしなかったが、楽曲重視派の筆者なので、ロゼリアの世界観とRASの楽曲の強さは素晴らしいものがあるなと感じ、非常に気に入っていた。特に、ロゼリアの『FIRE BIRD』はReturnsと同じぐらい好きで、実際のところ「ライブでFIRE BIRD聴ければそれでいいかな」ぐらいの軽い気持ちであった。

 

たまたま初日のセトリを見てしまい、FIRE BIRDは絶対やることがわかり胸を撫で下ろした一方で、『ヒトリノ夜』という見過ごせない一文もあった。

 

両バンドの主要な楽曲の予習も済ませ、緊張と興奮を心のマドラーで混ぜながら映画館へと赴いた。かつて、武道館で某ライブを見たときに、最後尾だったおかげでどんなに推しジャンしたり小ジャンプ連打してもアイマス警察に目を付けられなかったことを思い出し、あえて最後尾の席を取っておいた。

 

普段の行いが良いからか、隣の席は空席だった。

 

「二個つかえる!」

 

そう、隣のCさんに興奮気味に伝えた(使うとは言っていない)。

 

初日とは逆で、RASのライブが先に行われ、間にRASとロゼリアの面白動画、そしてロゼリアのライブがあり、最後に両バンドでお互いの曲を共に演奏して終わった。

 

端的に申し上げて、最高だった。7割ほどFIRE BIRD目当てだったが、終わってみるとRAS最高以外の感情を失った。それでもお腹は空いたので、秋葉原でCさんと食事をして感想を話して帰宅した。懐かしさすらあるオタクムーブだった。

 

上記で二回ほど出てきたが、筆者は、3人の時と2人になって最初の頃のポルノグラフィティ世代である。特に赤リンゴと青りんごは狂ったように毎日聴いていた。そうであるから、RASのヒトリノ夜でブチアガらないわけがないのだ。もちろん、RASオリジナルの曲もめちゃくちゃ良かったし、新曲もすごいよかった。

 

筆者個人の所感としては、ロゼリアは「5人そろってロゼリア」といった感じだが、RASは「5人がそろうとRASになる」という感じがした。

 

それぞれ個性もクセも凄いし、競い合っている気さえするパフォーマンスをしながら最高の演奏をしていて、ぶつかり合っているようで不思議とそこでRAS独特のグルーヴが生まれている姿は、本当に素晴らしかった。そのグルーヴが、これまでの活動の中でお互いに築いてきた信頼と、膨大な練習量に裏打ちされて生まれていることは、バンドリ歴2か月の筆者でもすぐに分かった。

 

年末のRASの単独は、ライブを見て決めようと思っていたので、流れるように抽選に応募したが、案の定落選したので、再度ライブビューイングに赴くことにした。

 

合同ライブから単独ライブまでの1ヶ月弱、非常に長く感じられたので、とりあえずRASの曲をほぼ全部iTunesで買って気持ちを落ち着けようとしたのだが、音源は音源で素晴らしい仕上がりだったので、かえって昂ってしまった。

 

そして、自分でも薄々気づいていたのだが、RASのDJであり、アニメではチュチュを演じている紡木吏佐さんのことが頭から離れなくなりつつあった。気づけば、youtubeでHiBiKi StYleを見ていた。

 

HiBiKi StYleとは、響所属の声優が定期的に1本動画をアップするスタイルでお送りしているチャンネルである。

 

 感想を端的に申し上げると、全部おもろいし可愛い。特にツボだなと感じたのは、相方的な存在である遠野ひかるさんと名前を呼び合うときは、公のあだ名ではなく下の名前呼び捨てなところである。つむつむ×とのぴーではなく、吏佐×ひかるなのだ。いや、ひかる×吏佐かもしれない。

 

 そんな感じで音源を聞いたりHiBiKi StYleを見るなどしている内に年末ライブ当日になった。

 

終わってから知ったのだが、どうやらRASのオリジナル曲とRASがカバーした曲のみで単独ライブをしたのはこれが初めてだったらしい。どうりで顧客満足度100%なライブだったわけだ。しかも新曲と新カバー曲までお披露目で、どうやら筆者の顧客満足度円グラフは2周目の終わりだったようだ。

 

まだ2つの新曲のCDの発売を来月に控えているにもかかわらず、新曲を更にもう1曲とは、ガンガン曲を作ってライブもやる「円盤作ったらあとはツアーまわるだけ」精神を味わえるとは、思いもよらないサプライズだった。

 

RASのライブがとにかく盛り上がれて楽しくて気持ちがよい。それは、演奏している彼女たちが常に全力で、「やべー」としか形容できないほどにパフォーマンス精神、エンターテインメント精神に溢れていて、そして何より凄い笑顔だから。それはもう凄い笑顔なのだ。

 

それから、ライブビューイングにも関わらず、楽しすぎて意識朦朧としながら見ていたのだが、何かの曲で紡木さんがとても楽しそうにラップをしていた(DJでもありMCでもある)ので、なぜか泣きそうになった。紡木さんがあんなに楽しそうにラップしている…なんて素晴らしい時間なんだ…。こんな気持ちになったのは本当に久しぶりだった。

 

 

 

第四章:書きかけのラブレター

 

バンドリに触れ始めたのは9月だったのにもかかわらず、「2019年はバンドリの年だったな!」と錯覚してしまうほどに本当に良かった。アニメも楽曲もライブも演者も良いと、四拍子揃うことなど滅多にない。いわゆるコンテンツの四暗刻状態なのだ(運営はアレという話題から目を背けながらツモ)。

 

間髪入れず、1月2日から3日にかけて24時間バンドリTVがあった。引き続き筆者は意識朦朧としていたが、可能な限りずっと見ていた。そういえば、去年この企画を目にしたときは「頭がおかしい、さながら狂人である」などと、よく知りもせず嘲笑気味な感想をもったのだが、1年で狂人側になるとは思いもよらなかった。今年は、「72時間ぐらいやってくれればずっと見れるのに」と思った。

 

その2日後、Cさんから当然のようにバンドリ第3期の先行上映に誘われ、4話まで観たのだが、本当に面白かった。何よりアニメーションの時空でようやくRASが結成されるストーリーをやってくれたので、上映中は「え?こんなにRAS摂取させていただいてよろしいのですか?」という気持ちでいっぱいだった。あと普通に泣いた。

 

多少のネタバレになってしまうが、ああいったストーリー展開を見せられると、既存曲が持つ意味や見え方もまた変わってくるなと思った。そうなると、また次のライブで聴くのが楽しみになるわけで、バンドリスパイラルに既に取り込まれている筆者であった。

 

 

そういうわけで、「無銭で映画が見えれる」という格差社会の闇の一面を持ったスタートではあったものの、めちゃめちゃすごいマジで最高のやつに出会えて本当に良かった。RASの次の静岡ライブはまたライブビューイングになりそうだが(筆者は膝に矢が刺さっているので遠征ができない)、年内には現地に行きたいと思っている。あと、ライブに着ていける「可能な限りバンドリに近いTシャツ」が「数年前の上坂すみれ誕生日Tシャツ」しかないので、よさげなものを調達したいという思いもある。

 

ほぼ確実に面白いアニメ3期の続きも楽しみだし、新曲の音源も楽しみだし、ガルパにRASを出してほしいという思念を送り続けているし、なにより次のライブが楽しみでならない。

 

ありがとうバンドリ、今年もよろしくね。

「普通に」生きている人々と対岸にある蕾

マキシマムザホルモンの中で一番好きなパンチラインが『予習復習』の「普通や一般という名の異常な正常者」な今日このごろ、いかがお過ごしだろうか。

 

 

小学生中期ぐらいにやったある道徳の授業のことが今日も忘れられないでいる。

 

ある日の道徳の時間に、重い病気か何かで未成年で亡くなってしまう、もしくはしまった女性の遺書的な、想いを綴った的な手記を題材に授業をしたことがある。

 

かなりぼんやりしているが、その方は普通に恋愛をして普通にお嫁さんになって普通にお母さんになりたかった、といった趣旨の言葉を残していた。

 

普通に寝起きして生活して生きれることに感謝しましょう、日常を大切にしましょう、そいう学びを得るための授業だったのだろう。

 

この方の詩と授業の趣旨は極めて真っ当で尊く基本的で、さらに人間人生において根源的で、特別な時間があるのはそれ以外の膨大な普通な時間が支柱になっていて、年齢世代に関係なくこれを忘れることなく維持していかなければならない共通の価値観だと思う(久々にブログを書くと現れる冗長なだけで殊更重みのない説明)。

 

それは、大事、とても大事で間違いない。しかも「普通に」と一口に言っても、その位置に至り維持するのは、比較的小さいが連続して一見終わることがない数多の困難と試練と挑戦の上において、初めて成り立つある種の奇跡によって存在している精神的な静寂なのだ。

 

そしてこれは、どんなに砕けた説明しても、子供がそれを真意から理解するのは、おおよそ困難である。親は可能な限り「普通」であることとを維持して提供してくれるし、子もそれを拒むことはない。いや、親になったことないからわからないけどたぶん、普通だけしか知らなければ、相対的に普通の価値を計ることは難しい。

 

 

それで、何が言いたいかというと、当時筆者はこの授業が恐ろしくクソで無意味で無価値に感じてならなかったのだ。

 

「普通」の尊さは今だからこそ痛いほどわかる。もう分かりたくないほどにわかる。しかし、当時の児童としての筆者は、「普通」が良いとは限らないし、生きていけたとしてもそれを得ることができるとは約束されていないし、お涙頂戴っぽいのも嫌だし(心の大部分を占める卑屈な本音の感情)、ていうか他の子たちにこれを聞かせたとて響くわけないじゃん、等と思っていた。

 

もちろん思っただけで、完全にイカれてはない。その感想文には、「いやマジでそう思う、超感動した(意訳)」みたいなことを書いて提出したように記憶している。

 

別に貧乏だったわけでもないし、家庭も複雑どころか極めてシンプルだった。いじめられていたわけでもないし(この時はまだ)、なぜこんなに早めに拗れていたのか思い出せない。言わばこじらせの早摘み一番搾りである。

 

まず反省して修正しておかないといけないのは、他の同級生達にちゃんと響いていた可能性は常にあったことだ。その授業中はまだしも、その後に何かあって「ああ、あの授業で習ったことだと」思い返した子もいたかもしれない。授業の理解度と教室の熱気は必ずしも一致しない。特に道徳の授業中はいつも以上に静かだった。

 

それと、一応先に書いておくと、大人になっても未だに小学生時代の一授業を引っ張り出してこねくり回していることのヤバさは重々自覚しているので、そちらで引っかかっている方は一度こちらの段に降りてきてほしい。人生経験の乏しさと薄さによるものなので多目に見積もっていただきたい。

 

それで、当時から筆者は不思議と、そして漠然と「普通に」生きていくということに対して、嫌悪感に近い蔑んだ思いと同時に、憧れにも似たキラキラした尊さを同居させていたのだ。一番欲しいけど手に入らない物ほど憎いものはない。愛と憎しみはいつもワンペアなのだ。

 

一般的な児童としては既に十分すぎるほどに「普通に」暮らし生活していたリトル筆者がここまで卑屈で鬱屈で屈折していたのは、2年生ぐらいからずっと心の中の自分と実際に現実世界に存在している自分の姿のギャップに悩まされていたからである。

 

いや、具体的に悩んでいたというよりも、ずっと少し息苦しく酸素が少ない感じ、喉に小骨が刺さっている感じ、本当の意味で感動したり喜んだり分かち合ったり達成したり慈しんだりすることができなかったのだ。

 

できそうな場面でなぜか一度できないとなると、「できない」というより、「しない」ことが自分の中で正しくなっていったのだ。笑ったり怒ったり泣いたりしない、するのはダサい、しない方が正しい、そう思い込むことで、本来自分と周りの人に認知されている自分のギャップに苦しまないよう心の調節していたのだ。

 

今思うと、「特別」だと思っていた自分の心の有り様を持った子は他にもいたかもしれない。もしそんな子がいたら、きっと仲良くできたかもしれない。だが流石にリトル筆者の思考はそこまで深くなく、「特別」同士の友達を作ろうなどという、むしろ自分の基準に相反することなど考えようもないだろう。

 

「早すぎた埋葬」ならぬ早すぎた中二病だったのだろう。あえてそう言い切って、枠にはめて、短絡した方がずっと気が楽である。それが一番「普通に」考えられる一般的な原因だったのだろう。

 

 

それで、この少年時代において「普通に」他の子と同じように、自分の感情や理性を言葉や表情や態度で示すことができていれば良かったのにと思う。自分ではわざと「しない」んだと、やろうと思えばできるんだと考えていたが、実際は「できない」に等しかったのだ。この「できない」にかなり悩まされたと思う。

 

一応、高校にあがったあたりで「しない(実はできない)」から「やっても良い」に変わり、大人になって「やりたい」に変わっていった。それでもまだ、今日に至っても「できる」とまではいかない。

 

 高校で初めてオタクの友達ができたり、大学生になって初めてオルスタライブに行ったり、ネットを介して自分のありのままの心情を吐き出したり、ドリクラとツイッターのおかげで(良い意味でも悪い意味でも)自分とは違う価値観や地域や世代の人々と出会って交流したり断絶(←これが特に大事)したことで、相当程度「普通に」生きて喜怒哀楽することを教えてもらい、次回もまた「やりたい」と思えるようになったと思う。

 

それから、素晴らしい音楽や映画やドラマとの出会いもそれを助けてくれた。ずっと自分を支えて依存させてくれたアニメやラジオやゲームのことも忘れてはならない。やはり人間は文化の上でこそ根を張り、成長して、それぞれの花を咲かせるのだろう(まだ咲いてない)(咲いてもめちゃくちゃ地味)(素人の人にこれが花なんですか?って聞かれる)(専門家の人が苦笑いしながらそうですって言う)(誰も写真取らない)(インスタではバエないけどツイッターではバズるタイプ)(バズったら何か宣伝していいらしい)(自分で宣伝するものがない)(レルエの「夜はエモーション」がオススメ)(ダイマ)(ダイマって地方のスーパーっぽい)(日本人のほとんどがオリンピックを知らない)(俺も大学生になるまで知らなかった)(ライフ派)

 

 

上手く言葉や態度で表現したり想いを伝えられなくても良い。そのうちできるようになれば良い。どういう形でも良い、どういうことについてでも良い。情熱がなくても続かなくても良い。まず言ってみる、書いてみる、伝えてみることから始めれば良い。そういうことを小学生の時の自分に教えてあげたい。あとめちゃめちゃ円高になるタイミングも教えといてあげたい。

 

よく、むしろ地球にしか知的生命体がいないほうが不自然で、逆にまだ見つかっていないことが宇宙人の存在可能性を常に示しているように、筆者のような悩みや苦しみを抱えて「普通に」生きられずにいる人がいるかもしれない。

 

もちろん、筆者も含めて彼ら、彼女らはそうであることを示さないので、機械的にそれを判別することはできない。でももし、いるのだとしたら、そっと心のブランケットで包んで、大丈夫だよと無責任に声をかけたい。少なくとも筆者は、だいじょばないの連続を経てなんとか今限りなく「普通に」近い形で生きていることができる。多くのアーティスト、クリエイター、友人、そしてエロ同人作家の皆々様のおかげである。今はまだ強い実感はないが、家族もその一助になっていたのかもしれない。

 

 

世の中のほとんどを占めているように感じられて、一見「普通に」生きている人々。その人らとは決して交わることができず、ずっと対岸にいる筆者を初めてとした人々。見方を変えると、「普通に」生きている人々も、より反骨的で反社会的でアナーキーで異常に生きている人々に憧れているのかもしれない。

 

晴れの日も雨の日も隣の芝はいつも青い。だから青は醜いと思うしかないのだ。もちろん青が最も美しいことを知っている。だから、美しいものが一番憎いのだ。でも本当は赤でも緑でも黄色でも何色でもいいし、色なんかなくても良い、美しくなくてもいい。それでもやっぱり『美しく生きたい』、そういう自分でありたい、そういう自分になりたいのだ。

 

もしかしたら、こうやって色を比べたり探したりすること自体がホントの「普通に」生きていくことなのかもしれない。比べることで初めて見える色だってある。童話に出てくる小鳥と同じで、実はずっと一番側にあるものが一番大切なものなのかもしれない。

 

もちろん、その鳥だって何色だって良いのだ。